明日からはセンター試験が始まるそうです。

 

毎年、この時期になると自分が受験生だった頃を思い出します。当日は最初の英語で上がってしまい、あまり点が取れませんでした。得意科目だったはずなのですが、あの独特の空気に飲まれたのでしょうか、試験の最中に頭が真っ白になりました。試験後、青い顔で友達に「ヤバい」と言っていたことを思い出します。白くなったり青くなったりして忙しかった日でした。

 

なんとか他の科目で盛り返して、大学生になることができましたが、もうあの緊張を味わうのは御免です。(まあ、その後も色々な場面で試験を受ける機会はあったのですが…)

 

好きなペースで好きな勉強ができるようになった今は、学ぶことは「立派な人」になるためのものでも、栄華栄達を果たすためのものでもなく、ただただ自分が「自由」になるためのものだと考えています。

 

人間は本来不自由な存在です。昔は土地環境、天候、猛獣や毒物などが、人間の「生存」という最も基本的な自由を脅かしていました。

長い時間をかけて経験を蓄積し、そういった脅威を乗り越えることで、現代人は多くの自由を獲得しました。

 

それでも、人間は生まれながらに自由というわけにはいきません。子供は親の下では不自由な存在であり、社会も大きな壁となって立ち塞がります。

 

その中で、少しでも自分の「無知」という不自由な状態を脱し、できる限り束縛を受けることなく生きるための選択肢を増やすために、学ぶという行為があります。

 

世の中の運営に携わること、いわゆる「社会人」になるということは、身体の自由と引き換えに経済的な自由を獲得する行為だといえます。身体ばかり自由でも、経済的な自由がなければ、やはり束縛を受けているといえますし、経済的に恵まれていても、がんじがらめに縛られた状態では、やはり自由であるとはいえません。社会的な立場にあまりこだわりすぎるのも不自由です(当の本人はそう思っていないことも多いですが)

 

そのバランスをいかに配分するか、この交換をいかに効率よく行うかが、それぞれの生き方の工夫となって現れてきます。

 

僕には「将来の目標」とか、「なりたいもの」といった具体的な到達「点」は何もありません。「日本一の鍼灸師」になりたいとも思っていません(基準がはっきりしないですし)。

 

そういったゴールを設定するのではなく「可能な限り束縛を受けず、自由であること」、という「状態」を得て、将来そのような環境に自分を置くことができればいいので、それぞれの「点」は文字どおりただ個別の通過点であり、自分の人生を捧げる対象にはならないのです。

 

受験生は不安に思っているでしょうが、試験はあくまでもただの手段なので、自分がこれからどうありたいか、そのために勉強をどう利用したいのかを頭の隅に置いておいた方がいいのではないかと思います。