別に誰にたずねられるわけでもありませんが、わたしの座右の銘は「どうせ死んでしまう」です。

これだけ書くとなんだか生きることに消極的な、中二病の人のようですが、違います。

 

たしかに、「どうせ死んでしまう」から人生は儚い。

どんなに長く生きても、

どんなに偉くなっても、

どんなに金を稼いでも、

どんなに異性にモテても、

この宇宙の歴史や広さと比べればそれは限りなく無に等しいわけで、いま上に挙げたものに意味など皆無です。

そもそも、この宇宙に客観的な「意味」など存在せず、すべて人間が「自分の人生に役立つかどうか」という勝手な基準で「意味」なるものをでっち上げているにすぎません。

 

そして、「どうせ死んでしまう」から”こそ”、人生は美しい。

無意味なはずの宇宙で、

数十億年の時間のなかの、ほんの一瞬のような人生のなかで、

自分の運命を感じる人に出会ったとき、

そのとてつもない偶然に驚愕し、感謝して、

世界がまるごとひっくり返りそうなときめきを覚える。

ほんの少し、できないことができるようになったときに、

この宇宙に居場所が増えたような気がする。

ちょっとした感動があるたびに、やっぱり生きていてよかったなあ、と思える。

わたしたちが永遠に生きていられて、全能の存在であれば、きっと嬉しくもなんともないでしょう。

 

「どうせ死んでしまう」ことを、あるときはネガティブにとらえ、

あるときは得難いものだととらえる。

両者の間を行き来しながら、あらゆるものに意味をつくって物語を生み出す人間の宿命を利用しながら、なんとか命をまっとうするつもりです。

 

しかし、快適に生きることが保証されなければ「どうせ死んでしまう」などとうそぶくことはできません。

古代ギリシアでは、あらゆる労働を奴隷に任せたことでヒマが生まれ、哲学が誕生しました。

王族の家に生まれ、何一つ不自由のない環境で育ったシッダールタは、その恵まれた生活のなかで、それを疑うことを覚え、出家して悟りを開いてブッダとなりました。

生きることが保証されてはじめて、人間は生を疑うことができるのです。

病気やケガで苦しみ、のたうちまわっている間は、その苦から抜け出したいということしか考えられません。

「なぜ生まれてきたのか」という疑問はもちろん生まれますが、それは自分が過酷な運命を背負わされることへの怨嗟の声になってしまうのではないでしょうか。

 

だから、「どうせ死んでしまう」というのはとても贅沢なセリフなのです。

わたしは、「どうせ死んでしまう」と言い続けるために、鍼灸師になりました。

とても恵まれたことです。

そして、鍼灸にたずさわることで、その恵まれた環境を自分と自分の手の届く人のところへ引き寄せることができました。

生きることを疑うにも体が元気でなければ、と考えています。

 

 

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